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第2話 離婚の朝、知らない香りがした

last update Tanggal publikasi: 2026-03-29 09:13:54

 朔弥さんは一晩中帰ってこなかった。

 私が送ったメッセージも、既読のまま返事はなかった。

 翌日、会社の空気は昨日より少しだけ悪かった。

 数字が悪いわけでも、会議が荒れているわけでもない。ただ、人の視線だけが妙に湿っている。そういう日の会社は面倒だ。問題が表に出る前に、誰かが勝手に物語を作っている。

 エレベーターを降りた瞬間、すれ違った総務の二人が、私を見るでもなく声を落とした。

「やっぱり、社長とは昔からそういう感じだったんだ」

「二人、本当にお似合いだよね」

「でも今さら入るんだ。しかもブランド戦略って」

 一条澄麗。

 帰国した、若くて、家柄もよくて、米国の名門ビジネススクール帰りだという女。社長自ら空港へ迎えに行った相手。会社にとっては華やかなニュースで、私にとっては、ひどく耳に障る話題だった。

 しかも彼女は、朔弥さんを初恋の人だと公言している。

 周囲もそれを昔話では済ませていなかった。きれいに成長して帰ってきた彼女を、社長がようやく再会した運命の女みたいに見ているらしい、と社内でもささやかれていた。

 そして何より厄介なのは、朔弥さん自身も、その空気を少しも否定しないことだった。

 昼過ぎ、廊下で若い社員たちが話しているのが耳に入った。

「高瀬さんって、辞めるのかな」

「社長夫人なんだし、むしろそっちのほうが自然じゃない?」

「一条さんが入るなら、対外まわりもきれいになるよね」

「社長が一条さんを会社に入れたのって、高瀬さんのポジションを引き継がせるつもりなのかな」

 自然、という言葉は残酷だ。たいてい、誰かを押しのける側が使う。

 夕方まで仕事を片づけて、私は誰にも何も言わずに帰った。説明するほどのことではない。今日はもう、言葉を使う元気がなかった。

 家は静かだった。静かすぎて、昨日の続きみたいで気味が悪い。

 二階の奥の廊下を歩くたび、いつも閉じたままの一室が視界の端に入る。誰も触れない部屋。使用人たちも、その前だけ妙に足音を殺す。こういう家では、知らされないことほど重い。

 何時だったのかはわからない。眠りの浅い底で、扉の開く音がした。

 朔弥さんだ、とわかったのは気配でだ。私は目を開けなかった。開けたら、何かを期待してしまいそうだったから。期待が裏切られたときの失望は、もう味わいたくない。

 ベッドの端が沈む。次の瞬間、背中に腕が回った。

 息が止まりそうになった。抱きしめられる、というより、確かめられている感じだった。失くしていないか、まだここにあるか、暗闇の中で手探りするみたいに。

 こうして触れられるのは、ひどく久しぶりだった。

 再建がいちばん苦しかったころ、張りつめた糸が切れたみたいに、たしかに何度か夜を越えたことがある。けれど、あれ以来、彼はほとんど私に触れなくなった。

 彼の体から、かすかに香水の匂いがした。

 朔弥さんは、整髪料も石鹸も、いつも無香料のものしか使わない人なのに。

 その違和感が、小さな棘みたいに胸に刺さる。

 なのに腕はやさしくて、余計にわからなくなる。

 昨日、私よりずっとこの家に似合う女を迎えに行った人の腕とは思えなかった。

 優しいのなら、もっと早く残酷でいてほしかった。

 そうしたら、こんなふうに、体だけ先に信じてしまうこともなかったのに。

 翌朝、キッチンから音がした。

 珍しい、どころではない。朔弥さんが朝食を作っていた。食卓に並んだのは、オムレツとトーストと簡単なサラダ。やさしい献立だ。だからこそ不自然だった。

「座って」

 私は椅子に座った。礼を言うには、あまりにも遅い朝だった。

「少し、休みたいんです。

 仕事のことも、一度ちゃんと整理して。子どものことも考えたくて」

 そこまで言った途端、朔弥さんの表情が変わった。ほんのわずかだ。けれど彼を長く見てきた私にはわかる。動揺を押し殺すときの癖だ。

「無理しなくていい」

 低い声だった。

 やっぱり彼は私のことを気にしているんだ。子どものために自分のキャリアを犠牲にさせたくないんだろうか。

「離婚しよう」

 耳の奥で、何かが白く弾けた。

「……は?」

「無理を続ける必要はない。君はもう、そこまで背負わなくていい」

「それ、離婚の理由になりますか」

「違う」

 否定は早かった。早すぎて、用意していたみたいだった。

「じゃあ何ですか」

 朔弥さんは一度だけ黙った。説明を探しているというより、出してはいけない本音を押し戻しているみたいな黙り方だった。

「……仕事の体制も、変える。澄麗を入れる」

 澄麗……。

 二人は、そんなに親しい関係だったのだろうか。

「離婚と、一条さんの入社と、何を一緒に話しているんですか」

「……そのほうが、都合がいい」

 聞きたかった。でも、聞けばきっと、自分が一番聞きたくない答えを知ることになる。

「正式には来週からだが、しばらくは君のラインに置くつもりでいる」

 役に立つあいだは使って、いらなくなりそうになれば切る。

 そのうえ、私よりこの家に似合う女まで用意されている。

 もともと愛を誓うような結婚ではなかった。

 それでも、ずっと会社を支えて、家では自分を押し殺してきた。

 それなのに。

 こんなに簡単に捨てられてしまうんだ。

 頭の中がひどく揺れて、朔弥さんの声だけが遠かった。

「……合理的、ですね」

 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くくらい薄かった。

 感情で言われたほうが、まだましだったかもしれない。

 彼は一瞬、私を見た。

「嫌なら――俺のそばに置く」

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